週刊ミネ

広告業界の片隅で働く映像・Webプロデューサー/ディレクターのブログ。

「見守る」という言葉の残酷さ

「見守る」という言葉を、普段の日常生活や仕事、ニュースなどで頻繁に見かける。

 

例えば「早稲田実業の清宮くんが、どう成長するか見守って行きたい」などという言葉である。

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そんな些細な「見守る」というという言葉について、私はよく考える。

 

「見守る」という言葉を人に使う時、基本的には「自分より弱者」に使う場合が多い。例えば、我々が自分たちの子供に対して使う時だ。

 

自分の子供に対して見守るという言葉を使う場合、「見る」という言葉よりは勿論のこと「守る」という言葉が強くなる。

 

子供をじっくり注視しながら、間違った方向に行きそうであればそれを正し、良き方向に成長させようと導こうとするものだ。

身内にこの言葉を使う時には、守るための行動も伴うものなのである。

 

一方、身内でない他者に対して使う場合、「守る」という言葉が極めて希薄になり「見る」という言葉が強くなる。

 

他者から「見守る」という言葉を聞いた時、一聴すると暖かく優しい言葉に聞こえるかもしれない。

 

しかし、「弱者である他人」が間違った方向に行きそうな場合、関心があっても「正そう」「助けよう」「成長させよう」という具体的な行動が伴わないという、言葉に秘められた残酷さを感じるのだ。

 

テレビなどのニュースメディアが、「見守る」という優しそうな言葉の裏で、いかに多くの人たちをネタとして見殺しにしてきたことか。それがある意味象徴しているだろう。

 

正しい方向への具体的な行動をせず、自分にとって都合が良ければ関わろうとし、都合が悪ければ悪ければ「見捨てる」に簡単に変化する。

 

「見守る」という言葉は実は簡単には使えないはずではないだろうか?何故なら、それなりの負担と責任を負うものだと思うからだ。

 

だから私は簡単には「見守る」という言葉を使わない。

 

ちなみに、このような考えに至ったのは何故かというと、昔テレビの仕事をしていた時、ご都合主義の残酷な上の人達に接することも多かったからである。

 

もっとも、今まで積み上げてきたものが多ければ多いほど、それを守るために簡単に負担やリスクは負えないというのも分かるのであるが。

 

少なくても「優しそうな残酷な男」でいるより、「冷たそうだけど実は優しい男」でありたいと思っている。なかなか理解されづらいのではあるのだが。。